雁木に寄せる想い

雁木(がんぎ)と私

山口県の東部を流れる清流・錦川は瀬戸内海に注ぎ込む手前で二股に分かれます。その一つ今津川の河畔で私は代々続く造り酒屋を営んでいます。

酒蔵のあるこの敷地はもともと今津御茶屋と御蔵があったところです。歴史研究家・宮田伊津美さんの文章によると「今津御茶屋は吉川の殿様の別邸であり、港湾施設の一つであり、役所でもあった。殿様が参府などで船を利用する時、乗船前や上陸後の休憩所として使われたり、結婚の際、他家から嫁いだ女性は船で今津に着き、雁木から上陸。御茶屋に少しの間逗留し、ここから御館に入るとされた・・・中略・・・明治三年四月に廃せられ、民間に払いさげられた。」とあります。その払いさげられた民間人が私の先祖でありました。

曾祖父にあたる創業者は、かつては米と和紙を貯蔵していた御蔵を酒蔵として用いて酒造りを始めました。御茶屋の港湾施設としての機能の第一は『雁木』すなわち川土手の石畳の階段状になった船着場の存在であり、創業当時は船積みされて錦川を下ってきた原料米が雁木から水揚げされていました。

私が生まれた昭和三十年代にはすでに文字通りの港湾機能はありませんでしたが、私にとって雁木は常に心の港として存在しました。

子供の頃、夏休みになれば雁木から飛び込んで日がな一日泳いでいましたし、階段の踊り場の延長戦上に川と平行に続く『犬走り』とよばれる狭い通路を鬼ごっこしながら駆け回っていました。その頃には今津川でも花火大会があり、その当日には雁木は観客席としてぎっしり人で埋まったものです。

青春時代のある時には、憧れのコルトレーンを気取って川に向かってサックスを吹き、ある時は友達と横並びに腰掛けて川面を見つめながら神妙に語り合い、ある時は酔っ払ってじゃれ合って川に落ちそうになったり、本当に落ちたり・・・打ちひしがれては雁木に佇み、嬉しいときにも興奮のほとぼりが冷めるまで雁木に立ち・・・思い出にはきりがありません。

百年に一度の水害に備えるという大義名分で今津川の護岸工事がおこなわれ、石垣にコンクリートがとってかわって雁木が消滅したのは、東京に住んでいた大学時代のことでした。かつての雁木の三分の一幅程度のコンクリートの階段が雁木もどきとして新設されましたが、護岸は窮屈で無味乾燥な息苦しい姿になりました。そういえば、まだ雁木があった頃すなわち護岸が石垣だった頃には、時折川から蟹が上がってきて当たり前のように我が家の畳の上を横断していました。石垣の隙間から白蛇が這い出て川面をするすると泳ぐ姿をよく見かけたものです。ことほど左様に雁木があったころの水際は水の生態系と陸の生態系の接点、いのちの発するところであったなと今更ながら思います。

私の代になってからは酒名を『雁木』とし、「水際からいのち生まれる」の思いを私達が造る酒に託しています。

八百新酒造 五代目蔵元
小林 久茂

『吉川資料館だより』から転載